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名古屋の寺町

先日、名古屋の妖怪伝説に関連して、平和公園とお墓について述べましたが、今日は名古屋のお寺について少し紹介したいと思います。

今年は、巷ではそれほど盛り上がっていませんが、名古屋開府400年に当たります。江戸幕府を開いた徳川家康が、息子の尾張藩祖、義直のために、1610年に名古屋城の築城に着手して、今年でちょうど400年になります。名古屋城と共に、400年前に作られた碁盤の目のように、区画された街並みが、現在の名古屋の中心部の起源です。名古屋の街の道路は、400年前に、今のように東西南北が碁盤の目状に、整然と計画されて作られたのです。

ところが、計画的に設計された名古屋の街も、軍事的には大きな弱点がありました。名古屋城の東部と南部は、自然の要塞としての地形に恵まれず、城の標高と変わらぬ台地が続いています。それとは逆に、名古屋城の北の一画を「御深井丸(おふけまる)」と呼びますが、これは低湿地であったことを示す、そのものずばりの呼び名です。西側も同じような低湿地帯で、明治時代に名古屋駅が開業したときは、葦や笹が生い茂っていたようなところでした。このように、城の西部と北部は、自然の要塞としての要素を備えていたのですが、東部と南部は、敵が攻めてきたときに備えて、寺院ばかりを同じ地区に集中させたのです。

今では若者で賑わう大須の商店街は、江戸時代には、寺院一色の寺町でした。大須の万松寺について、「何故商店街の真ん中に、こんな小さなお寺があるの?」と、子どもから質問されたことがあります。「大須は商店街ありき」と、お寺こそが大須の原点であるということを、全く知らない若者がとても多いようです。お寺に参拝する人を目当てに、商人が集まり、商店街が出来た、つまり門前町ですが、その街の成り立ちを知らない若者がたくさんいるのには、少々驚いてしまいます。

江戸時代の万松寺は、今とは比べ物にならないほど、広大な敷地をもった大きなお寺でした。大須観音はもちろん、北から白林寺、政秀寺、若宮八幡、大光院、清寿院(明治時代に廃寺)、七つ寺、西本願寺、東本願寺など、今の白川公園辺りから、橘町にかけての一帯は、すべて寺社で埋め尽くされていた、といっても過言でないほどでした。現在でもこの辺りは、大通りから少し中に入ると、いくつもの寺院が点在しています。本町通りの南は、仏壇街として有名ですが、お寺あってこその仏壇街なのです。

同様に、現在の新栄町一帯も、大須ほどではないにせよ、東の寺町としてたくさんの寺院が密集した地区でした。戦後、郊外に移転した寺院も少なくありませんが、今も広小路通と錦通の間には、都心とは思えないほどの寺院があります。大須も新栄の一帯も、名古屋の街を防衛するという観点から、計画的に作られた寺町だったのです。

ところで、名古屋と京都と、一体どちらが、寺の総数が多いと思いますか。きちんと統計を調べた訳ではありませんが、一説によれば、名古屋の方が、寺の総数は多いのだそうです。京都は全国的に名を知られた大寺院がたくさんありますが、小規模な寺院が少なく、数の上では名古屋に軍配が上がるのだそうです。絶対的な人口も、名古屋は京都の2倍はありますから。そんな数字からも、名古屋の寺町の存在の大きさを、感じさせてくれます。

余談ですが、パリとロンドンを比べて、どちらが美術館・博物館の数で勝っているかご存知ですか。ルーブル・オルセーなど、名立たる美術館はパリだと、誰もがお思いでしょうが、実際は数ではロンドンに敵わないのだそうです。ロンドンの人口は、パリの倍以上ですし、やはり小さな美術館・博物館が、ロンドンには多いのでしょう。

江戸時代の名古屋の寺町を実感するために、この連休に遠出する計画のない方は、一度大須や新栄地区の、寺町の街歩きなどしてみては如何でしょうか。意外な発見があるかも知れませんよ。
by meredeyoshi | 2010-04-27 17:01 | つぶやき
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